自担に求めるもの、推しに求めるもの



タイトルの通りのお話です。
もともと友人に「長文書きたいからネタ振りして」と言われて振ったネタなんですが、そのまま私に返ってきたので
現場のない期間の小噺として書きたいと思います。






自担に求めるもの

これは飽くまで今にして思うことであって、今までの担当にそれを求めてきたかと言われるとそこは首を傾げてしまうのだけれど。


一つに、当然ながらビジュアルが好みであること
一つに、見る機会、知る機会がある一定以上あること
一つに、パフォーマンススキルがある一定以上あること



この辺りが多くの人が漠然と考える担当の概念でしょう。
これはもちろん私にも言える話であって、否定するつもりは毛頭ない。





ただし自分が担当にしたいと思う最大の基準は

パフォーマンスなどのある一点以上において芸術性が高いこと。

これだと思います。




そもそもな話ステージという文化はある程度エンターテインメント性を保持していると言えるのだけれど、
その中でもやっぱりアートとしてステージ若しくはパフォーマンスと向き合っている人がいると思っていて。

そういう人にはやはり見るたびにハッとさせられる何かがあって、自分にはない何かしらの表現方法を持っていて、
私たちには見えない部分での心の動きを推し量ることが面白いような人。

そういう人が見ていて飽きないし、そういう人にこそのめり込める。






そもそもアートとエンターテインメントの定義は?

日本人にとってアートという横文字は美術と混同されることが多いのだけれど、美術とは芸術に包括されるものです。




アートとエンターテインメントの違いとは端的に言えばベネフィットかノンベネフィットか、です。
つまり作品の制作過程でのマーケティングの有無です。



エンターテインメントは一人でも多くの人間を取り込むことを念頭に置いていますが、アートはそうではありません。
スタートがそもそも違う。





とは言っても日本の芸能においてアートとエンターテインメントの区別はとても曖昧なので、わかりやすくジャニーズの中で私がアートだと思う人、エンターテインメントだと思う人をあげてみようと思う。





代表的にアート性が高いと思うのは嵐の大野智くん。
発言一つとっても媚びないしパフォーマンスも一定のクオリティがあると思う。

しかしながら大野くんの場合はアートから発進したにも関わらず、多くの人に認められて今やエンターテインメントとして受け入れられた稀有な例だと思います。



的を絞ってパフォーマンスを作り上げていたものが多くの人たちにたまたま認められているのだと思う。
そこにマーケティングの色は薄い。







かたや同じ嵐の櫻井翔くんは生粋のエンターテインメントだと思います。
嵐、もしくはジャニーズにいないポジションを徹底的に調査してマーケティングを緻密に行っている例。
嵐として、ジャニーズとして、櫻井翔として、一人でも多くの人間を掻き込んで地位を確立しようとしているように見える。






まぁ結局のところ性格の問題で、どっちが良いとかどっちが悪いという話でもなくて。
こちら側、つまりそのキャラ設定であるとかパフォーマンスに対する受け手の好みでしかないのだけれども。






私の個人的な意見としては、
自担にはそういったマスを惹きつけようとする意志よりも、自分のやりたい事をひたすらに突き詰めてる間になんかここまで来ちゃいました〜みたいな、あっけらかんとした感じでいてほしくって。

だから最低ラインとして、その仕事を見るからに楽しんでいるという要素が必要。





もちろんノンストレスな人という意味ではなくて、
「自分のやりたいことをする上でいくらでも苦労はしていい。だって好きなんだもの。」「苦しい、でもこれやりたい」
を突き通してきた結果なんかここまで来ちゃいました〜という意味で。







なんなら自担にはある程度苦労してほしいと思っていたりします。
その苦労に耐えうるメンタリティーを持っていてほしい。


その上その苦労は新鮮さの残るうちはひた隠しにしてほしいと思っている。
いつの日か昔話みたいにその口から語られればいいと思う。


この理由はまた後ほど出てきます。










推しに求めるもの


推しにはそういった苦労であるとか、芸術性は求めないので、例えば私の中では目黒蓮くんがそのポジションなんですけど、

目黒くんに対して思うのは、可愛い可愛いできるだけ苦労せずにサラッと推されてほしい。です。




なんなら目黒くんに対してはエンターテインメント的な、マーケティング的なこともしなくていいよぉ〜と思っている節がある。

ひったすらに手放しで可愛い可愛いと言えるような、誰にも分かりやすい説明的ですらあるようなアイドル性を求めているのかも知れない。
同じような例でよりわかりやすい人だと髙橋海人くんとかもそうです。




(本当はここで神宮寺くんとか平野くんとか言えるともっとアイドルっぽくてわかりやすいと思うんですけど、私の中で踊れる人でないと推しのフィールドに上がってこない…)
(平野くんは踊れると言われているけど、個人的にダンスが上手いと思ったことはないのです。この話はまた機会があれば。)







でもこんなに可愛い可愛いと思いつつも、自分にとって目黒くんが担当に昇格する日は来ないことを知っている。

永遠の推しなのです。



同じ推しの中でも目黒担になることはきっとないけれど、仲田拡輝くんの担当になることはあるかも知れないと思うのは以上のような理由なのです。









そして何より、私が自担に求めるもの、というよりはこういう人を自担にしていると思うのは、

自分がその人になりたいと思う、羨望の眼差しで見ることが出来る人。




きっとただの憧れなんだ。
私自身がずっとステージに立つことを志し、そして志半ばでそのフィールドを捨てたことが大きいと思う。





私にとって自担とは
色恋妄想の対象ではなく、
鑑賞物としてでもなく、
ただただ羨望の対象なのです。

羨望の対象が女の子でないのは、ずっと男に生まれたかったと思っていたからかも。






きっとただ自分がアイドルになるとしたら、ステージに立つ側になるとしたなら、こういう人になりたい!と思う。
そういう人を自担として据えているんでしょうね。




真鳥くんに対しては、
私もこんなパフォーマンスをしたい!ステージの上でこんな風に生きたい!と思える。
仲田拡輝くんに対してもそうです。






こういう人になりたい!と思うのは、パフォーマンススキルだけでなくて、そのパフォーマンスを作り上げる上で培った経験も全て引っくるめてのこと。




これが先述の苦労話云々のことになるんだけれど、

自分自身、頑張ったことや苦労したことは人にペラペラ話したくないと思っていて、けれどもその苦労に耐えうるメンタリティーの強さは持ち合わせていないから、
いつもあっけらかんとして、ただ楽しそうに振舞っている人がとてもかっこいいと思うしそういう人間でありたいと思う。




だからいつもキラキラの笑顔で、陰りをほとんど見せなずに12年もあの世界で走ってきた真鳥くんこそが、私の担当なんだ。







長々と語った結果がこれかーい!ってね。
まぁたかだか一ジャニヲタの脳内なんてこんなもんですよ。





こんなに大きな母体だと、いろんな応援の形があるし、いろんな人にいろんなファンがいる。
そういう意味でジャニーズって面白いしジャニヲタって面白い。







お友達にも、煽りでもなんでもなく「なんでこの子が好きなの?担当なの?」って聞いてみることがある。
大抵バラバラの答えが出てくるのが面白い。



「何故か意地になれる」
「ただただ顔が好き」
「リア恋」
「ファンが少ないから」
「ファンサされたから」
「母性本能をくすぐられる」

いろいろな理由があって、なんとなくその気持ちもわかるものもあれば、全くわからないものもある。





あなたの、応援する理由や自担の魅力って、なんですか?
自担に求めるものって、なんですか?