戸塚祥太主演/広島に原爆を落とす日
実は始めて南座の客席に足を踏み入れるという、演劇をしていた身としては隅にも置けない私でした。
小屋としては松竹座とほぼ大差ない形にはなりますが、大きな違いとしては
二階席の前に顔当ての照明がないことと、一階席に傾斜が少ないこと、二階以上の左右列が二列ずつあること、
そして桟敷しかり、内装しかり、松竹座よりも遥かに歌舞伎小屋らしいことで、伝統ある重みを感じるところ。
綺麗すぎず、古き良き日本の歌舞伎小屋であって、こりゃあ演目関係なく観光客入りたがるな…と納得した次第でした。
兵士役の方々の通路登場から始まるのだけれど、小道具の旗には観劇マナー及びルールが記されていて、なんとなく
「なにわ侍ハローTOKYO…のショータイム前…」
と思ったのは両方観た人ならご理解いただけるはず。(笑)
まぁそんな仕様もない話は置いておいて、まず率直な感想としてはめっちゃつかこうへいワールド!!!!
ただこれって恐らくつかこうへい作の芝居を観たことのある人にしか伝わりづらくて、特に演劇に不慣れな人にはナンジャコリャの連続だろうなとは。
まず一般的な認識として、役者が突然ハンドマイク持ち出して歌い始める(しかもJ-POPの本家CDに被せて)なんていうのは本当にわけわからんし、いらない演出だと思うだろうな。
ただのつかこうへいあるあるなのでそこに意味とかはあまりないと思います。主張の強いBGMくらいの認識で良いはず。
今回に関してはハンドマイクで役者ががなる場面もありましたが、あれはなかなか難しいと思う。
正直私も7割がた聞き取れなかったし。
つかこうへい作品のあるあるネタとしては
これらは今回の作品でも分かりやすく見られた特徴かと。
早口で捲し立てる台詞が多いことやモブの主張の強さは、作品にギラギラ感を持たせるためであって、
作品の本筋も含めてつかこうへい自身が社会(特に日本)に対する強い反骨精神を持っていたことに由来するのではないかと思われる。
話の本筋としては史実とは全く異なるフィクションであるし、だからとて無下にできるような軽いお話でもないのだけれど、
一つ言えることはきっとディープ山崎という男が確かにこの舞台の中には息をしていて、確かに愛があったということ。
けれどもそれを軽々と超えてくる戸塚祥太という一人の役者に惚れ惚れした。
シーンの移り変わりが早く、シーンにおけるテンションの起伏もとても激しくて、なかなか理解してついていくには難しいのに、ディープ山崎の心情の移り変わりだけがすんなり心に入ってくる。
これは並大抵ではなくて、役者の頭の中で表に現れる声のボリュームや台詞のピッチや動作の大小に関係なく、気持ちがずっとエンピツで描いた線のようにしっかりと続いている必要があって。
例え役者であったとしても、人間の脳みそというのはとても単純で、声のボリュームや動作にとても感情を左右されるものだから、その声や身体に左右されないだけの、役としての強い信念のようなものがないとそうしたことは難しい。
これを難なくやってのけた(少なくともそう見えた)戸塚くんはとてもとても役者だと思った。
本の内容としては、愛を軽々しく口にしないディープ山崎とヒトラーには、日本人以上に日本人らしい愛への美学を感じた。
これももしかすればつかこうへいの日本人でないことへの、日本人に差別されてきたことへの痛烈なコンプレックスの投影かも知れないと思った。
あとは裏方のテクニカル的な話をすると、美術に関しては良い意味で安っぽくて良いなと。
照明のネタは作品のガチャガチャした雰囲気とは相反して統一感があり、作品のシーンとシーンの繋ぎ目としてとても良い役割を果たしていたし、ラストシーンのロスコの炊き具合もたくさんの灯体の設置される場所・角度も絶妙だった。
この作品を見て、強い憧れと羨望を覚えた。
あぁいいなぁ、私たぶんこういう芝居がしたかったんだなぁ。
ラストのディープ山崎のモノローグでは、涙してしまった。けれどもそれはきっと作品の本筋とは全く違うところからくるものかも知れず、多分に嫉妬を含んだものですらあると思った。
愛を軽々しく口にして語らないことも
大切な人を死に誘うことで愛を確かめることも
こんな素晴らしい芝居をすることも
私が生きているうちにはどれ一つとして出来ないだろうと思った。
二時間あまりの上演時間中、おやすみタイムとして費やした人もいただろうけれども、
もしかしたら私が芝居をしたことがない人間だったら同じように眠って過ごしていたかも知れない。
けれども少なくとも私にとっては非常に有意義で、良い意味で心を締め付けられる作品だったことは間違いないし、とても良い機会だった。